東洞翁の発想 ー原点と軌跡ー
齋藤謙一
(茨城県日立市 齋藤薬局)

HOME > 無門 > 東洞翁の発想

一.はじめに

傷寒論・金匱要略を昔の医師達は、どのようにみていたのだろう。そして古方派の大成者であり、当時の医界を揺さぶった革命の医傑吉益東洞(よしますとうどう)は、どのようにして歴史に登場したのであろう。

傷寒・金匱の二書は、元々は傷寒雑病論(しょうかんざつびょうろん)の名称で、張仲景(ちょうちゅうけい)が後漢の末に著わしたものといわれている。早くから日本に到来していたと思われるのだが、実際に、臨床医学書として注目されたのは、一六〇〇年後半である。それは、曲直瀬道三(まなせどうさん)を中心とした李朱(りしゅ)医学にとって代わるものであった。背景には、伊藤仁斎や荻生徂徠らによる古学復興と朱子学排撃の流れがある。医学界で、最初に復古の説を唱えたのは、名古屋玄医(なごやげんい)(1628―1696)であった。以降、後藤艮山(ごとうこんざん)(1659―1733)、山脇東洋(やまわきとうよう)(1705―1762))、永富独嘯庵(ながとみどくしょうあん)(1732―1766)と続き、東洞(1702―1773)へと繋がる。

また、古学との関係をみれば、艮山の門下生香川修庵(かがわしゅうあん)(1683―1755)は、仁斎の門下生でもあり、東洋も徂徠の門人である山県周南とその弟子滝鶴台と親交を結び、徂徠の影響を受けた。東洞翁もまた周南を師とし、鶴台を友としたので、徂徠の学風に感化されたと想像される。(『近世科学思想史・下』)

しかし、かれらは仲景方を古法とよび、臨床に応用はしたが、その度合いには濃淡があった。艮山と東洋は、千金・外(げ)台(だい)をはじめ、広く衆方を使用したので仲景方はその一部にすぎなかった。東洞は仲景方のみであった。このように差が生じたのは、個性によるものといえるだろう。しかしそれ以上に、古方に対する価値観の相違が大きいと思われる。

傷寒論・金匱要略への東洞の思い入れは、尋常でなかった。それがやがて『方極』(ほうきょく)、『類聚方』(るいじゅうほう)、『薬徴』(やくちょう)の刊行に結実する。ではどうして東洞翁は、このような斬新な発想をしたのだろう。あくまでも推測に過ぎないが、その秘密に迫りたいと考える。

二.東洞翁の略歴

1702年

安芸の広島に生まれる。名は為則 字は公言、通称は周助、号は初め東庵、後に東洞に改める。

1721年

吉益流金瘡産科の術を受けるも「胎産ハ婦人ノ常、金瘡ハ外傷ナリ。病ナラザルハ薬ヲ用フルニ及バズ。病アルハ証候ニヨリテ之ヲ治療スベシ。何ゾ分科スルヲ要セント。」いい、ひたすら古医方の道を研究する。寒夜にも火を避けて眠を慎み、暑熱に蚊を防がずして怠るを戒め、頻に『素』、『霊』、『難経』(なんぎょう)以下古今の医書を渉猟し、『病源候論』『千金方』以下劉張(りゅうちょう)、李朱(りしゅ)の空論浮説に疑いを抱きしこと多年にわたる。

1731年

名古屋、後藤諸先輩の医説を聞いて発奮し、更に又、諸子百家に渉って研究を重ねた結果、大いに悟入発明する。それが「萬病一毒説」である。同時に張仲景を標準として治療の方針を立てるべしと主張する。

1738年

安芸より京に上り、京都萬里小路春日町南入るに居を構えて古医道を標榜し開業する。この時、畠山姓ではなく吉益姓を名乗った。しかし、医業は振るわず、弟子入りする者もなく、貧窮はなはだしくなり、遂には、表通りにいられず、裏店に退いて人形を作り、張子の虎を細工し、軽土の鉢皿を焼いて売り、糊口を凌ぐこと三年に及ぶ。

その後、佐倉候に仕官を薦められるが、「余ハ貧困ニシテ老イタル親アルモ、吾志ヲ降シテ祖先ヲ汚辱スルモノニアラズ。貧困ハ士ノ常ニシテ窮達ハ天命ナリ云々。」といって断ってしまう。

1744年

貧困は益々ひどくなる。翁、絶食すること七日に及び五條通りの少彦名の社に願かける。神のご加護があったのか、突然の転機が訪れる。人形問屋での山脇東洋との出会いである。

石膏が縁であった。問屋にいつものように、作った人形を収めにいった折、そこの老母が傷寒に罹り、禁裏附御医師山脇道作の往診を受けていた。翁は脈診を許され老母を診察する。主治医が山脇であることを聞き、「サアラバ定メテ誤治モアルマジ。サリナガラ御薬アラバ拝見イタスベシ」といって、山脇の薬を見終わり、「イカニモ大病ナレドモ、治療ソノ方ヲ得タレバ最早追々快復ニ赴クベシ。タダ今ヨリハ石膏ヲ去リ用イテ然ルベシ。若シ山脇氏来診アラバ、周助カク語ルト通ジラレヨ」といって帰る。

程なく、山脇例の如く来て、薬籠(やくろう)を出し、調剤にとりかかったが、匙をとってやや暫く思案の様子。主人進み出でて、前条の次第をいう。すると山脇横手をうち、「サテコソ其ノ事ナリ。余モ今一日石膏ヲ用インヤ否ヤ所ノ工夫ニ、痛ク心ヲ費セリ。其話ヲ聞クカラハ其意ニ従ヒ、今日ヨリ石膏ヲ去ルベシ。」調剤が終ると山脇氏は、直ちに翁の僑屋に向かった。家中木屑で一杯だが、傷寒論が一冊、座右に開いてあったという。

1747年

人形問屋主人の援助で、三條通東洞院西入ルに医門を開けた。翁四十六歳の時である。東洞の号は地名に由来する。この時以来、医業も盛んとなり弟子もふえた。

1764年

『方極』刊行(1755年の著述)

1769年

『類聚』方刊行(1762年の著述)

1773年

九月二十二日、卒然トシテ目眩ミ痰飲(たんいん)咽喉二迫リ、舌強バリテ語ルコトヲ得ズ。其翌日紫円ヲ服シテ大イニ吐瀉シ胸中爽然トナリテ食大イニ進ミシガ、其翌日復又食スル能ハズ。又言葉ヲ発スルヲ得ズ。 九月二十五日ニ至リ、終ニ卒去セラレル。享年七十二歳。

1785年

『薬徴』刊行(1771年の著述) 没後十二年。

(以上『東洞全集』より)

三.考察

東洞翁の略歴を記したのは、貧困との闘いや山脇東洋との出会いそして高名となる波乱に富んだ生涯が翁の考え方に深く関係すると考えるからである。 まず強靭な精神力に驚く。十九歳で医学に志した動機は次の通りであるという。「父は畠山重宗という。先祖は一代の名族と聞き、家名の復興を決心する。そこで兵学を修め、馬を馳せ、剣を使い、父祖の跡を継いで医業を修めようとはしなかった。しかし、成長するにしたがい、太平の時節には武術をもって、家を興すことは、とても困難と思うようになる。そこで発奮し、ついに医術を学ぶ決心をした。」それから略歴にあるように猛烈に勉強して、古今の医書を渉猟し、三十歳頃に張仲景方に出会うのである。

三十七歳で京に上り、古医道を標榜して開業したが誰からも相手にされず、食うや食わずの貧困にあえぐ。それでも仕官の誘いを断り、傷寒論を座右において、ひたすら人形制作に励む。普通の人間ならば、空腹に耐えかねて挫折するところだろう。まさに超人的な精神の強さである。そのような状況で翁は傷寒・金匱をどのように読んだのだろうか。おそらく、僧がお経を読むようなものであったろう。まさに命がけの修行といえる。仲景方に関心を持った他の古方家は、日々の診察に追われ、そこまで真剣に読むことはなかったと考える。前述したように、仲景方に対する、東洞翁と他の古方家達との温度差は、このように大きかった。

四十六歳で東洞院街に医門を開くまでの九年間、東洞翁は臨床経験をほとんどすることなく張仲景方と向き合っていた。その間に、傷寒・金匱、古書を素材として、東洞流の医学体系を創造したのである。もしそうでなければ、山脇東洋との邂逅はなかったであろう。多少の脚色はあるだろうが、石膏一味が縁でその実力が認められ、一躍名医と称えられるようになったのは、翁の理論が確固たるもであったからである。それからは、理論に臨床経験が加わって、八年後に『方極』、十五年後に『類聚方』、二十四年後に『薬徴』が著述された。傷寒・金匱から生まれた東洞医学の総決算といえる。 では、東洞医学発想の原点となったものはなんだろうか。一つは、十五年という長期間(三十歳から四十六歳)、臨床経験をすることなく、純粋に、理論の構築に専念したこと。二つには約六年間、人形の制作をしたことが挙げられる。即ち、強い意志と固い信念に環境そして仕事が作用して、東洞翁独自の医学体系が生まれたものと想像する。三つは、古書の信仰である。

(一)十五年に及ぶ傷寒論・金匱要略との対話

中西深齋(なかにししんさい)(1724―1803)は、一切の客を謝絶して三十年、傷寒論を研究し、『傷寒論辨正』(しょうかんろんべんせい)(1790年刊行)を著したという。東洞翁とは正反対の研究生活である。深齋は『辨正』で、傷寒論の正文と後人の補入文を区別し、独自の説を述べている。しかしそれは、翁の三部作のように傷寒論の枠組みを超えるものではなかった。翁の考え方がいかに画期的なものだったか、改めて感じるのである。

『方極』の序にいう。「夫れ仲景の方たるや法ありて方証相対し因を論ぜず。而して毒の中に正を建つ。此れ之を極という。云々。是に於いて品玄左をして方の之を所すところを記さしめ名けて方極という。」

『類聚方』の序にいう。「医の学や方のみ、云々。蓋し夫れ張氏の籍の読み難きや、方と証との散じて諸篇に在り、夫れ学者をして惑わしむ。今や列して之に類し、附するに己の見る所を以てし、其の疑有る者は之を矩する方を以てし、名づけて類聚方という。」
『薬徴』の序にいう。「書に曰く、若し薬瞑眩せざれば、厥の疾瘳(い)えずと。云々。仲景の法を執って其の方の功を試し、以て其の薬の主治と兼治とを審かにするなり。次に其の考えの徴を挙げて、以て其の言を実にす。之に次ぐに、方の徴なき者を以て互いに参じて之を考え、以て其の義を明らかにし、之に次ぐに、古今其の薬功を誤る者を以てし、古訓を引きて之を弁じ、次に其の品物を挙げて以て真偽を弁じ、名づけて薬徴というなり。」(『和訓 類聚方広義・方機・方極・重校薬徴』)

三部作の序のキーワードは「方」である。まず書名が、『方極』、『類聚方』である。『薬徴』でも、「其の方の功を試し」とある。極め付きは、『類聚方』の「医の学や方のみ」である。翁がこのように薬方を重視した背景の一つが、研究環境である。つまり、翁は病人を診ることなく、ひたすら仲景方を読んで、独自の医学理論を組み立てた。これは、皮肉にも翁が自分から求めたものではなく、医業の不振がもたらした結果である。もし、京に出た翁が日々の診療に追われていたら、はたして、独創的な理論をつくることが出来ただだろうか。医学は薬方の研究だけでよいというのは、病人から病を切り離すことを意味する。

この発想は現代医学と共通するところがある。病をヒトから独立したものとして考えることである。そうしなければ、動物実験や統計的な手法を用いることができない。仲景方の陰陽・虚実はともかくとして、翁が脈まで否定したことは、なおさら、その感を強くする。脈は、ヒトと病を結ぶ大切な診断手段であり、仲景が重視したものである。しかし、翁は仲景方からヒトを切り離した。具体的にいえば、仲景方の条文を下から読んだのである。

傷寒論十三条「太陽病、頭痛、発熱、汗出悪風者、桂枝湯主之」→「桂枝湯、頭痛、発熱、汗出悪風者、主之」その上で次の操作をした。方法は、〈分ける〉〈集める〉〈集めて帰納する〉である。

〈分ける〉を実践したのが『方極』である。仲景方より百七十三方を選んで、各薬方のエッセンスを簡便に述べたものである。極は、準則、きまりを意味する。序文では、仲景方には法(法則)があって薬方と証が相対している。だから病の原因を論じなくてよい。それは毒(病)のなかに正(薬方)をたてることであり、これを極(薬方のきまり)というと述べている。

(例)桂枝湯

上衝し、頭痛し、発熱し、汗出でて悪風する者を治す

薬方のきまり(適応症)を分類して明確にすれば、師匠と弟子の処す方が不一致ということはなくなるともいっている。要するに薬方の標準化を目的としたものである。

〈集める〉は、傷寒論・金匱要略中から類する薬方を桂枝湯以下順に配列し、散在している条文を薬方のもとに集めたものである。題して『類聚方』という。

(例)桂枝湯

上衝、頭痛、発熱、汗出、悪風、腹拘攣する者を治す。
桂枝三両芍薬三両生姜三両大棗十二枚
煎じ方 服用法 服後の注意

「太陽の中風、陽浮にして陰弱、陽浮は熱自ら発し、陰弱は汗自ら出ず。嗇嗇として悪寒し淅淅として悪風し、翕翕として発熱し、鼻鳴し乾嘔する者」 以下、二十六の条文が列挙されている。

最後に為則按ずるにとして、自験のコメントを述べている。(ただし、桂枝湯にはない)

薬方は桂枝湯に始まり、蛇状子散までの二百一方を採用している。また、不試方として、竹葉石膏湯以下、最後、小児疳虫蝕歯方の十八方を加 えている。(本書は後に尾台榕堂により、『類聚方広義』として一八五六年発刊された。それは、『類聚方』の各薬方の下に『方極』の文を加え、頭注に自験から得た考察などを記載した書である。薬方はさらに拾遺方として十一方が追加され、総数二百三十方となっている。)

『類聚方』は、類方鑑別という考え方を提示している。最初に桂枝湯から人参湯までの三十三方が類方とされている。その次には茯苓杏仁甘草湯から?楼瞿麦丸まで二十一方が記載されている。生薬からみると、主として桂枝、茯苓、麻黄、柴胡、石膏を含む薬方の順である。二百一の薬方を類型化するだけでなく、実際に使用して得た臨床経験を端的に付け加えている。

〈集めて帰納する〉は、『薬徴』に用いられた手法である。東洞翁は、仲景方に含まれる薬物の薬理学書を目指した。『薬徴』の最初の薬物は石膏である。

(例)石膏

煩渇を主治し、譫語、煩躁、身熱、頭痛、喘を兼治す。

考徴:石膏を含む薬方を多い順から配列し、薬方の証から薬物の作用を帰納する

互考:考徴で挙げた薬方についての考察

辨誤:従来の説に対する反論

「後世、石膏を以って峻薬となし、之を怖るること大いに甚だし。是れ学ばざるの過なり。仲景氏、石膏を用いること其の量つねに他薬より多く、半斤より一斤に至る。此れ蓋し其の気味の薄き故を以てなり。」

品考:撰品に関する項目

「石膏は漢産を良となす。本邦も亦処処に出ず。加州奥州最も多し。硬軟の二種あり。軟き者上品なり。」

東洞翁は、ここで、薬方を分解すことにより薬物の薬能を導きだそうとしたのだが、七回、原稿を書き改めても満足出来なかったという。その理由は、薬能(薬徴)が薬方から、独立してしまい、薬方と薬徴の関係が不可逆になってしまったことである。

(例)桂枝湯

上衝。頭痛。発熱。汗出。悪風。腹拘攣する者を治す。

桂枝…上衝を主治す。故に奔豚、冒悸を治す。発熱、悪風、自汗、身体疼煩、骨節疼痛、経水の変を兼治す。

芍薬…結実して拘攣するを治す。故に腹満、腹痛、頭痛、身体疼痛、不仁を治し、下利、煩悸、血証、癰膿を兼治す。

大棗…攣引強急するを治す。故に能く胸脇引痛、咳逆、上気、裏急、腹痛を治し、奔豚、煩躁、身疼、頚項強、涎沫するを兼治す。

甘草…急迫を主治す。故に厥冷、煩躁、吐逆、驚狂、心煩、衝逆等の諸般の急迫証を治し、裏急、骨節疼痛、腹痛、咽痛、下利を兼治す。

生姜…記載なし。

これらの薬徴からみると、桂枝湯の証は桂枝と芍薬だけで説明が出来てしまう。

また、芍薬、大棗、甘草に共通する薬徴は「腹痛」である。桂枝湯は太陽病篇の最初に位置するばかりでなく、太陰病篇にもあり、条文は「太陰病、脈浮者、可発汗、宜桂枝湯」である。太陰病の提綱には、「腹満而吐。食不下。自利益甚。時腹自痛」とある。奥田先生は条文の脈浮について、次のように解説している。

「今、脈の浮なるは、其の太陰病初起の一軽症にして、尚ほ未だ太陰本来の証を具備せざるに、偶々表証を併せ発するが為なり。此の証、先ず解肌の法に由て、其の表証を解せざる可からず。」即ち、桂枝湯は太陰病の初期、表熱を挟む者を発汗するのが役目で、提綱にあるような「時腹自痛」を治する薬方ではない。もし、「腹満時痛者」であれば、桂枝湯の芍薬を三両から六両に増量した桂枝加芍薬湯の仕事になる。

ところが薬徴によると、桂枝湯の中に腹痛を治す薬物が芍薬、大棗、甘草と三つも並ぶことになる。すると、桂枝湯は発汗より、むしろ、腹痛を治す薬方という性格を強くなり、『方極』や『類聚方』の記述との整合性がなくなってしまう。

このように、『薬徴』から『方極』を再構成できないことが、東洞翁の頭痛の種ではなかったろうか。『薬徴』は上・中・下の三巻からなり、石膏から牡蛎までの五十三の薬物を取り上げている。著者が満足できなかったとはいえ、『薬徴』が、従来の本草書の常識を破ったことは、当時、革新とも評された。書物と共に、考え方が後世に大きな影響を与えたのである。 

(二)六年に及ぶ人形制作

医業を目指し仲景方を研究するも患者が来ず、毎日人形作りをしたことも東洞翁の発想に少なからぬ影響を与えたのではなかろうか。腹診法がその一つである。『医断』(一七五九年刊行)に次のように述べている。

「腹は生有るの本。故に百病はここに根ざす。是れを以って病を診るは必ず其の腹をうかがうべし。」(『東洞全集』)人形は文字通り、ヒトの形をしたものである。ある時、人形を作りながら、翁はふと思ったに違いない。「病は腹にある。腹診が重要である」と。

しかし、腹診は翁の発明ではない。『百腹図説』(二代目道三・玄朔著一六〇二年刊行)の序文には以下のようにある。

「故に胃を持って陽となし、腎を以って陰となす。是れ先天の気・後天の気をいうなり。然り而して之を診するの法は、腹候にあり。故に腹は生有るの本、百病此に根ざす。因って図説を著すなり。学者これを思へ。」(『近世科学思想・下』)

これをみれば、『医断』の文章の出典は明らかである。ただし、翁が腹診をさらに発展させた功績は大きい。東洞翁は腹診を診断の基本とし、独自の腹診法を完成した。

また、『方極』、『類聚方』そして『薬徴』をこの世に送り出した手法も、人形を作りながら、仲景方を読んだからこそ生まれたものと想像する。材料を加工して、ヒトの形にする工程には、何種類もの作業がある。同時に、工程の途中では、出来つつある人形を上から、下からあるいは斜めから、何度も全体の調和を見たことだろう。東洞翁が仲景方の条文を下から読み、加工するという発想は、人形に教えられたといえる。人形制作時代に組み立てた医学理論を実証するために、以後、生身の人間の病を治すことに精力を傾けることになる。

ところで、翁は医術に空理空論は不必要とし、目にみえるもの、治療に効果のあるものだけを対象とし、親試実験と称した。親試実験は、仲景方の臨床試験をいったものだが、もう一方では、自分の理論の検証も兼ねていた。本格的に医業を始めて七年後に『方極』、十四年後に『類聚方』、二十三年後に『薬徴』を著述し、理論を目に見える形にした。

…以下略

『無門』第二号(2004.7.7)より

HOME > 無門 > へ戻る


Copyright© 2006 KENICHI TSUKADA All reserved.

Valid HTML 4.01 Strict Valid HTML 4.01 Strict