中世、近世の中国医学書

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代表的古典について

ここでは中国医学の三大古典以外の書を、時代を追って紹介してみます。これらは漢方を勉強するときに、出典としてよく取り上げられますので、書名と著者名だけでも知っておくと理解が深まります。随唐時代のものは、『傷寒論』『金匱要略』の条文の研究において頻繁に出てきますし、金元時代以降のものは、後世方派や中医学の基礎となっています。

随代

諸病源候論…巣元方

『諸病源候論』(しょびょうげんこうろん)は随の巣元方(そうげんぽう)が国家の命を受けて編纂した、東洋医学唯一の病理・病因・病態学全書です。当時の診断学、症候学ともいうべきもので、この『諸病源候論』によって、中国古典医書に記された病名・術語を理解することができます。後の『外台秘要方』『医心方』などの医学全書の編集分類は、本書に準拠しています。
また『傷寒論』『金匱要略』の註解書においても、条文中の語句の意味を本書にゆだねていたりします。本書は諸種の疾病の原因、病理、症候、病名について論じたものゆえ、薬物による治療法は一切ふれていません。また本書には道士(道教を修めた人)の導引法(運動法の一つで気を整える)の記載があり、道教の影響が伺えます。

唐代

備急千金要方…孫思邈

『備急千金要方』(びきゅうせんきんようほう)は略して『千金方』ともよばれ医学全書の嚆矢となった書です。人命は千金よりも貴いものであり、一つでも人命を救う処方を世に伝えることを医の使命と考えて、千金方と名づけたと言われています。著者の孫思邈(そんしばく)は、神仙家いわゆる仙人であったため、その医学思想は内経系思想のほかに、神仙医学を加え、また仏教医学も加味されています。
『千金方』は総論に始まり、鍼灸に終わり、病の症候、原因を論じ、先人の用いた処方を羅列してその適応を説き、按摩、導引、房中術などにもふれています。概観、体裁ともに大変整っていますが、巫祝に類する民間療法まで包含したため、内容は雑然として統一感はありません。しかし一面当時備わっていた名医の処方が各所に収載されていて、その点において臨床上有益な参考書であります。一部は日本の『医心方』にも引用されています。
本書に収載されている代表的な薬方は、排膿作用のある千金内托散(せんきんないたくさん)、狭心症のような心下部の疼痛に用いる千金当帰湯(せんきんとうきとう)、胃潰瘍などに用いる堅中湯(けんちゅうとう)などであります。

千金翼方…孫思邈

孫思邈は若い頃より様々な書に親しみましたが、傷寒論だけはどうしても手にとることができませんでした。これは「江南の諸師秘して伝えず」とあることから、当時傷寒論は秘本とされてきたためでした。そのため仙人であった孫思思邈でさえ見ることができなかったのです。『千金方』の執筆から三十年後、孫思邈は待望久しい傷寒論の原本を入手することができました。そこで傷寒論の一部を引用し、『千金方』の欠を補翼するという目的で、続篇ともいうべき『千金翼方』(せんきんよくほう)三十巻を著しました。したがって本書は傷寒論研究家の一次資料としても使われています。

外台秘要方…王Z

『外台秘要方』(げだいひようほう)は『千金方』と常に対比される医学書です。著者の王Z(おうとう)は医家ではなく役人でありまして、久しく台閣(宮廷図書館のような所)に在って閲覧研究した厖大な古医書の資料にもとづき、晩年地方の太守として閣外に去ってから撰述したのが本書であります。故に『外台秘要方』と名づけられました。
内容量は四十巻と『千金方』よりもはるかに多く、引用書目は広範にわたり、しかも客観的で、その引用文献名は勿論のこと、原典をそのまま抜粋してあるので、『小品方』『必効方』「集験方』『古今録験方』など随唐時代に散逸してしまった医方書の内容を知る上で文献価値大であります。その中には一部『傷寒論』『金匱要略』『諸病源候論』などの原姿をうかがうことができ、それらの研究の上でも不可欠な資料です。熱極により充血炎症や精神興奮する黄連解毒湯(おうれんげどくとう)や、柔中風の肩こりで用いる独活葛根湯(どくかつかっこんとう)などは本書を出典としています。また林億によって校正された『金匱要略』には附方として、本書から多くの薬方を採録しています。

宋代

太平恵民和剤局方…陳師文、斐宗元

『太平恵民和剤局方』(たいへいけいんわざいきょくほう)は宋政府の官立薬局で用いられていた国定処方集です。陳師文(ちんしぶん)、斐宗元(ひそうげん)等によって編集されました。『和剤局方』(わざいきょくほう)ともよばれ、世界最初の薬局方、つまり医薬品に関する品質規格書でもあります。現在の「日本薬局方」の名称はここからとっています。
「和剤局」とは国営の薬局のことで、宋政府が当時の名医を招聘してそれぞれの秘方を進上させました。つまりそれまでは秘密裏に限られたものたちの間で伝えられていた処方が表に現れたのです。したがって宋以前の漢方処方を集大成したものともいえ、利用価値は高く、一部に金匱要略の薬方の原方と思える薬方もあります。成立は大観年間(1107〜1110)でありますが、その後幾度も増補され、1151年に『太平恵民和剤局方』として出版され、広く流布しました。
本書は先ず病症をあげて、それに用いる薬方と応用目標を示してあるので、それほど医学に専門的な知識がなくとも処方を選び出すことができるという点で頗る便利であり、また薬方も丹剤、丸剤、散剤、膏剤といった剤型が多く、これらは予製剤として量産が可能であり、広く世に用いられました。このように簡便化した治療を行う一派を「局方派」といいます。局方派は、薬を廉価に供給することに貢献した反面、陰陽を分かたず、虚実を弁ぜず、とくに方証を顧慮することなく、その病類の指示によってただ漫然と薬方が使われる無気力状態の時代が続く一因にもなりました。
『和剤局方』中の主な処方には、痙攣性胃痛を鎮める安中散(あんちゅうさん)、気の鬱滞を散らす香蘇散(こうそさん)、健胃散のように使える平胃散(へいいさん)、婦人の聖薬として有名な四物湯(しもつとう)などがあります。また病後、術後の体力恢復に用いる十全大補湯(じゅうぜんだいほとう)や婦人の血の道の不定愁訴に用いられる加味逍遙散(かみしょうようさん)も『和剤局方』から出た薬方です。 本書は後世に強い影響を残し、日本の医家にも利用されました。

金代

宣明論…劉完素

正式名称は『黄帝素問宣明論方』(こうていそもんせんめいろん)といいますが、一般には『宣明論』(せんめいろん)とよばれています。作者の劉完素(りゅうかんそ)は、字は守真、河間と号しました。南宋の頃金の領内であった河北省河間県の人だったので、劉河間(りゅうかかん)とよばれました。
劉完素は『和剤局方』での病類指示による漫然と使われていた弊風を打破し、医界の覚醒を唱えた革命の士でありました。五運六気を深く研究し、季節と六淫(りくいん)、すなわち風邪、寒邪、暑邪、湿邪、燥邪、火邪(熱邪)の六つですが、これを組み合わせて病因を探ろうとしました。すべての六淫は熱に変化するという火熱論を唱え、それを冷やすためにいわゆる瀉火の寒涼剤、石膏(せっこう)、黄連(おうれん)、黄芩(おうごん)、黄柏(おうばく)、山梔子(さんしし)などを好んで使用したため、寒涼派とよばれています。
病を分析し、処方を決定する方法について、『素問』『霊枢』などの説を引いて編成されており、『黄帝内経』の研究に新しい道を示しました。肥満症に用いる有名な防風通聖散(ぼうふうつうしょうさん)や、皮膚枯燥した糖尿病に使われる麦門冬飲子(ばくもんどういんし)は本書が出典です。

儒門事親…張従正

『儒門事親』(じゅもんじしん)とは、著者の張従正(ちょうじゅうせい)によれば、医家の奥義は儒教に拠らなければ明かにすることがきないとするもので、親孝行のために役立たせるためにこの書を著したという意味をこめて『儒門事親』と名づけました。本書では、汗吐下の三法を活用して、病気を誘発する邪気を取り除く治療法を提唱しています。
張従正は、名を従正(じゅうせい)といい、字は子和、自らは戴人と号しました。南宋の時代、金の領内だった睢州考城宛丘(現在の河南考城県)の人で、豪放磊落で親しみやすい人柄だったといわれています。神医の名を恣にし、金王朝時に大医院に招かれたこともありました。先の劉完素の医法の流れをくみ、『素問』『難経』の学を精しく究めました。
従正の医法は劉完素と同様に補法に反対し、治病においてはまず邪を去ることに重きをおき、邪が去れば安らかになるから、攻めることを恐れて病を養うことになってはいけないと主張しました。瀉法を好み、治法にあたっては『傷寒論』を参考にして、病邪を汗、吐、下の三法によって攻むる法を説きました。とくに下剤によって病毒の排出をはかることに重点をおいた医説をたてたため、攻下派とよばれています。これは古方派の大成者である吉益東洞が、万病一毒説にて、毒を以て毒を攻め、毒去って身体健やかなりと主張したことと、一見同じように思われますが、東洞は医に陰陽五行や五運六気を用いることを排斥していますので、出発点においての治病理念が異なります。
劉完素と張従正はともに中国北部の生まれであり、北方の人たちは飲食厚味でその生活様式は寒涼攻下に適し、それによって奏効することは多かったのですが、その一門の流派はひたすらこうした瀉剤を用いことだけを使命としたため、徒に生気を損ずるばかりで、その弊害も少なくなかったようです。この二人の学派を劉張学派といいます。

脾胃論…李杲

補剤の王者で医王湯の別名がある補中益気湯(ほちゅうえっきとう)を創方した李杲(りこう)は、治病にあたって脾胃を重視し、『脾胃論』(ひいろん)を著しました。
李杲(1180〜1228)は、字は明之、東垣(とうえん)と号し、鎮定(いまの河北省正定県)の生まれであります。張従正の門人張元素(ちょうげんそ)の弟子です。元素は、運気説によって運気は年ごとに変わるものだから、古方では今の病気をなすことができないと主張し、そのため新しい時代の病気には新しい処方を用いるべきだと提唱した。
李杲はその師の説にしたがって、劉張学派の攻撃的治療が、体力をそこなう弊害のあることを批判し、全身の体力増強を主眼として、脾胃を補うことに専念しました。それは、五行説によって、脾が土に属し、土は万物の母であるゆえに、これを補うのが治療の根本であると主張したもので、脾胃が健康の源であるという脾胃学を提唱しました。その自説を解説して著したのが『脾胃論』で、李杲の学派は補土派とよばれています。また李杲の治病の要提は、脾胃を補って全身の栄養を良くすることにあるとし、これにより東垣は又温補派とも称されます。
李杲は交友が多く、それらが高貴上流の社会で逸楽を欲し、補脾を好む種の階級であったため、李杲の方法は大いに歓迎され、且つ東垣の世に行わるるとき、恰も元兵が南下して帝都戒厳後の事なれば、当時の人々は皆起居も定まらず、飲食失調のため胃腸を損ずるもの多かったが故に、李杲の方はよく奏効したのでした。現代のような暖衣飽食の時代には大いに参考になる医説です。

元代

局方発揮…朱震亨…養陰派

『局方発揮』(きょくほうはっき)の局方とは『和剤局方』のことです。本書は問答形式の医論集となっていてます。著者の朱震亨(しゅしんこう又はしゅしんきょう)(1281〜1358)は、名は震亨、字は彦修、丹渓(たんけい)と号し、婺州義烏県(いまの浙江省義烏県)の出身です。世間の人たちからは「丹渓先生」と尊称されました。震亨は、李杲の門人で、「補土派」の奥義をきわめました。またさらに劉完素、張子和の論説を折衷して自己の学説、「陰不足説」を大成させました。李杲と朱震亨の医学は李朱学派とよばれます。また劉完素、張従正、李杲に朱震亨を加え、金元四大家といいます。
震亨は先に『格致余論』という書を出しており、この中で震亨は、多くの患者を観察すると、陰と陽がアンバランスで陰の不足が目立つと、「陽は常に余りあり、陰は常に不足す」という陽有余、陰不足の説を唱え、治療の根本は陽をしずめ、不足している陰を補い、栄養をよくして体力を高めることにつきると主張しました。「陰を滋(うる)おし、火を降ろすことを重んず」という滋陰降火の法則です。滋陰を補陰とおきかえると分かりやすいかもしれません。その学説は滋陰派とも養陰派ともよばれています。肺結核や慢性気管支炎などに用いる滋陰降火湯(じいんこうかとう)は、この考えに基づいて創方されています。
本書は『和剤局方』への批判書でありまして、『局方』は病因を考えずに、症候から処方を安易に選定して病人に用いていることの弊害を訴えています。またそれらには辛温燥性の剤が多く、これらの使用で度を超えると内火を盛んにしてしまうと主張しています。

明代

万病回春…龔廷賢

『万病回春』(まんびょうかいしゅん)は、龔廷賢(きょうていけん)によって『難経』(なんぎょう)より金元四大家までの医学書を編纂したもので、総論・各論ともよく纏まっており、日本では江戸時代初期に紹介され、爆発的な人気を得てたびたび翻刻されました。
龔廷賢(1522〜1619)は、名は廷賢、字は子才、号を雲林または悟真子(ごしんし)といいます。金渓(いまの江西省)の出身です。家は代々医者であり、父の龔信(きょうしん)に医術を習い『黄帝内経』『難経』などの書を研究しました。またそれに合わせて金・元の医家の学説をとり、名医にも教えをうけています。廷賢の著書としては他に『寿世保元』(じゅせいほげん)、『済生全書』(ざいせいぜんしょ)などがあり、龔信との共編である『古今医鑑』(ここんいかん)もよく知られています。
本書は中国よりも日本で有名になり、日本の後世方派の教典となっています。論説が簡潔であり、治療に有益な議論にしぼられている点が評価を受けました。それため後世方の薬方解説では、運用目標をその薬方の出典よりも本書に依拠することがあります。本書で汎用される薬方の大部分は滋陰清熱剤が占めています。遍身走痛する疎経活血湯(そけいかっけつとう)、風熱毒の清上防風湯(せいじょうぼうふうとう)、婦人血崩に用いる温清飲(うんせいいん)、傷寒喘急する五虎湯(ごことう)、驚タ不眠の加味温胆湯(かみうんたんとう)など、多くの処方が今日でも広く使われています。

本草綱目…李時珍

『本草綱目』(ほんぞうこうもく)は、明代の世界に誇る薬学者李時珍(りじちん)(1518〜1593)が完成させた薬物書で、本草書の決定版とみなされています。
李時珍は、今の湖北省の生まれで、医者であった父に医学の教授を受ける傍ら、本草学に異常な興味を持ち、開業の余暇に文献の探索(800以上の書物を参考にした)と、実物の観察を行って、実証的な薬学を打ち立てようと努力し、死の直前に金陵(今の南京)に、この大著を公刊しました。
本書は、従来の本草書と違って、神農本草経以来の伝統であった三品分類(上品、中品、下品)を排し、独自の立場で、実物について自然分類の形式をとっています。16部の綱目のもとに、さらに細かく分類しました。本書は古典本草書の引用に課題を残しておりますが、明代の新しい科学的な視点が感じられ評判が高く、現在まで数十版を重ね、日・独・英・仏の各国語に訳されています。中国の医学、すなわち漢方を論ずるには、欠くことのできない文献となっています。
本草綱目は収載されいえる薬物が厖大なことから、この中から漢方薬として実用性の薬物を精選し編集したものに、王昴(おうこう)が著した『本草備要』という書があります。『本草綱目』の要約版ともいうべき書で便利です。

外科正宗(げかせいそう)…陳実功

『外科正宗』(げかせいそう)は中医外科学を代表する外科書で、外科領域で用いる様々な薬方や外科手術などが載っています。著者の陳実功(ちんじっこう)(1555〜1636)は、崇川(今の江蘇省南通市)の人で、幼少より儒家の経典を学び、刀針の術を授けられて医学に励み、著名な外科医に大成しました。
本書には外科の疾病の病因、診断から治療例まで紹介しており、後世の医家に多大な影響を与え、我国の漢方医の間でも広く用いられました。本書の白禿痩(白癬、 しらくも)門に潤肌膏(じゅんきこう)という処方が載っているのですが、これを日本で初めて全身麻酔の手術に成功した華岡清洲(はなおかせいしゅう)が、取捨し創意工夫して紫雲膏(しうんこう)という軟膏を考案しました。漢方薬の軟膏として今日でも大変有名です。


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