傷寒雑病論

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〔画像/江南文化圏の地域〕
 
〔画像/傷寒雑病論の成立〕

経験医術の結晶ー江南文化圏

『傷寒雑病論』(しょうかんざつびょうろん)は漢方医学の最古最高の古典であり、漢方を日本の伝承医学というのであれば、その漢方に多大な影響を与えた書であります。疾病治療の亀鑑として極めて実践的な医書です。

温暖な気候の江南文化圏の医術も、草根木皮を中心とした生薬を利用する療法でありましたが、揚子江文化圏の医術が神仙家の影響によって不老長寿の術にゆがめられたのとは、大いにその趣を異にしました。

江南文化圏の医術の起源は明かではありませんが、煎じ薬を創始したと伝えられる殷の宰相・伊尹(いいん)の系統に属すると考えられます。江南では、揚子江文化圏のように特殊な自然物の神秘的薬効に重きをおかず、真土不二(しんどふじ)に基づく容易に入手できるありふれた薬物を適宜組み合わせて、その総合効果を十分に発揮できる条件のもとに用いるという方法に発展していきました。高温多湿で、流行病発生の危険に常にさらされていたこの地方の種族は、純医療的な薬物療法に全力をつくしたのです。

多くの急性伝染病に共通する症候群に対して、民間薬的な一種類の薬物ではその効果は甚だ心細いものです。そこで数種類の薬物の総合作用に期待をよせ、しかもその効果が如何なく発揮できる条件を追求していきました。こうした長い間の多くの人々の努力と経験が整理されて、一定の薬物を配合した処方と、それに適応する条件の原則が見出され、「証」という基本概念を把握し、漢方医学としての法則性を確立したのであります。

江南文化圏の医術は、漢の時代にほぼ完成していました。そしてそれらの知見を集約した文献が、今日伝えられている『傷寒雑病論』であります。
傷寒雑病論の現存するテキストは『傷寒論』(しょうかんろん)と『金匱要略』(きんきようりゃく)の二つに別れています。共に後漢の時代に長沙(現在の中国湖南省の州都の一つ)の太守(知事のような役職)であった張仲景(ちょうちゅうけい)が著したものといわれ、特に傷寒論については、西暦220年頃の作とされています。しかしその著書の成立については多くの謎です。そして古方派の先哲達はこれを張仲景の作とは思っていません。理由は簡単で、このような破格の書は一人や二人の天才ではとても書けないということです。

この傷寒論そして一歩引いて金匱要略が伝える江南文化圏の医術の内容は、非常に高度な臨床体系を成しており、特に傷寒論は極めて実用的で、自然哲学や神秘的色彩などはまったく認められません。純医療的で実用性に富み、高遠な理論を展開することもなく、「この病気にはこの処方」と、原則を指示しているだけですが、それがかえって現在においても色あせない物になっています。本書はともすると外見上は『黄帝内経』や『神農本草経』と比較して理論が甚だ貧弱にみえるかもしれません。実用医学をさげすんで高遠な学説を論ずることを学問と心得る中世の中国思想の中にあっては、これらの文献は「湯液の聖典」と尊ばれてはいながら、その方法論はついに近世にいたるまで主流を占めることはありませんでした。むしろその本当の姿は、かえってわが国に伝来した後、江戸時代に整理、研究されて、より高度な医学に昇華されて今日の日本伝統医学となったのであります。漢方を日本の伝承医学と考えるのは、このような背景があるのです。

傷寒・金匱と略称されるこの偉大な古典が、特に江南の地において成立した理由はいろいろ考えられます。一つは兵法の戦略書である『孫子』が江南の産物であり、その内容にいくつか共通点があることに注目することができます。孫子は他の兵法書とちがって、単なる戦争技術書ではなく、闘争を通じた人間の心の動きをしっかりととらえた哲学書であります。

孫子の全編を通じて流れる精神は、@戦争を美化して考えない。A無理な戦いを避ける。B変化発展の眼でとらえようとするの三点であります。この戦略を傷寒論・金匱要略の疾病治療法に当てはめてみると、@病気を冷徹な眼で観察する。A最低限の体力の消耗で病気を除く。B病気を流動し絶えず変化するものととらえ対策を講じるとなります。春秋・戦国時代に、未開種族で文化程度が低いと蔑視されていた南方種族が、必要に迫られて工夫したいくつかの有効処方は、江南の地で、孫子の兵法までも応用しつくされていたかと考えると、その内容は瞠目に値します。
因みに同じ頃に、古代ギリシャの医聖・ヒポクラテスは、迷信を排して観察や経験を重んじ、西洋医学の基礎をつくりました。自然とその一部である人間について、鋭い洞察力で観察した記録を残し、また約270種の薬草について、その使用方法と用いるべき疾病の分野が記されており、こちらも傷寒・金匱のイデオロギーと共通する部分があって興味は尽きません。

傷寒・金匱に収載されている薬方を調べていくと、南方系の地名に起源をもつものが多いことが分かります。越婢湯(えっぴとう)は春秋時代の国、越(現在の浙江省地方)の名称でありますし、、生薬の呉茱萸(ごしゅゆ)の呉、蜀椒(しょくしょう)の蜀も三国時代の江南の国の名であります。また傷寒論の嚆矢となる薬方である桂枝湯の主要な生薬である桂枝は、熱帯原産の肉桂すなわちシナモンの枝若しくは樹皮を使います。

傷寒雑病論は全十六巻からなり、後漢の時代張仲景の著述後いったん姿を消してしまいました。それから百年後の東晋の時代に王叔和(おうしゅくか)によって発見され、編纂整理されて再び世に出ました。しかしこれもまた姿を消し、宋の時代に林億という儒者らによって再度編集しなおされて辛うじて世に残りました。我々が現在手にしている傷寒論はだいたいこのときのものが元になっています。


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