神農本草経

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〔画像/揚子江文化圏の地域〕
 
〔画像/神農本草経の成立〕

不老長寿への憧れー揚子江文化圏

漢方薬に用いられる薬物(植物、鉱物および動物)のことを本草(ほんぞう)と呼び、その功能を記した書を本草書(ほんぞうしょ)といいます。『神農本草経』(しんのうほんぞうきょう)は中国に現存する最古の本草書で、成立は後漢の頃で、後述する『傷寒論』とほぼ同時代(紀元25〜220)と推定されます。原書はとっくに紛失していますが、歴代の本草書が本書の原文に手を加えずに註釈を付加していくスタイルをとっていたので、原文がほぼ元の形のまま後世に伝わっていて、何度か復元されています。その内の一つ1854年日本の森立之によって復元されが最も信頼できると評価されています。『神農本草経』から始まった本草という学問の内容は、その後広く物産学まで包含する応用博物学になりますが、その主な目的は薬効論におかれているため、中国医学における薬学と解釈してよいと思います。

神農(しんのう)とは中国古代の伝説の人物で農耕と医薬の祖とされています。神農は中国史上はじめて農具を作って農耕を創始しました。それだけでなく日を定めて市を開いて物資を交易し、また赤い鞭で草木を打ってその味を試み、薬草を発見したりしました。それ故農業だけでなく、商業や医薬の開祖ともされています。それで現存する揚子江文化圏の医療の古典を『神農本草経』と称し、神農の名を冠しているのです。  神農はあらゆる草木を自ら毒味して調べ、一説にはそのため一日に七十もの毒に当たったといわれています。その中から365種類(一年の日数に合わせている)の薬物が収載され、内訳は植物薬が252種、動物薬が67種、鉱物薬が46種となっています。

〔画像/神農象〕

本書は薬物を上中下の3つに分けました。上薬はこれを君薬として、命を養うことを主とし、「天」に相当するものとしました。これらの薬には毒がないから、長期間にわたって服用しても害がないものと考え、軽身益気、不老延年を欲するものの飲むべき薬であるとしました。中薬は、これを臣とし、養性を主として、「人」に相当するものであるとしました。これらには病を防ぎ、体力を補う力があるから、毒の有無によって適宜に配合して用いなければならないとしました。下薬は、これを「佐使」とし、病を治することを主として、「地」に相当するもので、毒が多いから、長期間の服用に適しないと考えました。このことは『神農本草経』が多分に神仙的な薬効に重点をおいたものであったことが想像できます。

揚子江流域は早期から稲作と操船の民の生活が発達し、生活に豊かさがありました。また西部の山岳地帯には多くの薬物を産出しました。天然資源に恵まれ、生活が向上して衣食住の心配がなくなれば、当然起こってくるのは、人間の性として、いつまでもエネルギッシュでありたいとか、長生きしたいなどという欲望であります。朝鮮人参がひどくもてはやされたり、老荘の無為自然の道を奉じた道家や不老不死の仙術をあやつる神仙家が発生したのもこの時代のことです。彼の秦の始皇帝が不老長寿の薬を求めて、徐福を日本へ派遣したという故事(徐福伝説)も、こうのような思想を裏付けるものと考えることができます。揚子江文化圏の種族は、炎帝神農氏(えんていしんのうし)をそれら生活技術の創始者となし、理想の帝王と考えて神格化しました。これは先の黄河文化圏における黄帝と同じであります。

このように揚子江文化圏に芽生えた医術は、始まりこそ疾病に対する自然物利用の薬物療法でありましたが、やがて揚子江流域の環境及び種族の性格などに支配されていき、遂には不老長寿、軽身延年を理想とする方向に向かってしまい、肝心の疾病治療は二の次にされてしまいました。それでも『神農本草経』は、神仙家の影響をうけてはいますが、方士(不老長寿などの神仙の術を行った人たち)の術にまでは堕落していない、医療本来の面影をとどめた揚子江文化圏の文献と考えられます。


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